里山学覚書

森林科の学生のつぶやき

ぼくが歩くわけ 〜歩きでしか得られないもの〜

ぼくは歩くのが好きだ。

歩くという行為に関して、大抵の人は好きでも嫌いでもないと思う。

いや、どちらかというと長く歩くのは嫌いな人のほうが多いのではないか。

しかし、ぼくはなぜか歩くのが好きなのだ。

好きと言っても、隣駅まで歩くとか、一日1万歩歩くとかの次元ではない。

1日に何十キロも歩くのである。

時には野営道具を担いで何日もかけて百キロ単位で移動する。

でも、多くの人にとっては、なぜこんなに長距離を歩くのか疑問だと思う。

友達とかに話しても、「すごい」とは言ってもらえても、「面白そうだから一緒に行こう」という人は少ない。

歩くことの楽しさはなかなか理解してもらえないのである。

 

なぜ歩きなのか

しかしながら、ぼく自身「なぜそんなに長い距離歩くの?」と聞かれてもなかなか上手い答えが出てこない。

ただなんとなく歩くと楽しいから歩いているのである。

文句あるか。

で、終わらせたいところだが、この先も同じことを聞かれ続けることを考えると、何かしら人に理解してもらいやすい回答を考えておいたほうがよさそうである。

では、なぜぼくは歩いているのだろうか。

そこら辺をウォーキングしてるおばさんなら、健康のため、と答えるだろうが、ぼくは健康なんて正直どうでもいい。

確かに通常のウォーキング程度なら健康増進を望めると思うが、長距離歩行において歩くことは身体的トラブルとの戦いである。

足の裏は痛くなるわ、水脹れはできるわ、雨で風邪ひきそうになるわ、日焼けで皮が剥けるわで、とても健康どころじゃない。

むしろめちゃくちゃ辛い。

歩くのが好きじゃなかったら修行に等しいだろう。

好きで歩いていても、正直きついなあと思う時はたくさんある。

雨の日はしんどい

 

強くなりたいから歩くのか

逆に、ぼくはキツさを求めているのかもしれない。

キツさを乗り越えた時に感じる達成感は結構好きだ。

1日50km歩いた日、暴風雨の日、長い山越をした日、その瞬間は「キツいなあ」と思っていても、大抵終わってみれば楽しかったと思っている。

辛い状況を乗り越えてこそ、人は成長できるんだと思う。

でも、ぼくが歩く理由の核心はキツさを求めてのことではない気がする。

やっぱり、歩くことが楽しいから歩くのだ。

 

「旅」について

ぼくは「旅」という言葉が好きだ。

「旅行」でも「トラベル」でもなく「旅」。

「旅」という言葉の響きは、なんだかとてもロマンを感じる。

そして哲学的な感じがする。

「旅」と「旅行」の違いはなんだろう。

ぼくは、「旅」の方が移動する過程そのものを重要視しているように思う。

移動すること自体に喜びを感じたとき、それは「旅」と言えるのではないだろうか。

景色が変わり、気候が、言葉が、文化が変わっていくのを肌で感じること。

これこそが旅の楽しさではないだろうか。

こういう感性こそが、本当に大切なものなんじゃないか。

だから、ぼくは、ほんの散歩程度のものでも移動することに楽しさを感じさえすれば、それは立派に「旅」なんだと思ってる。

そう、歩いて移動することを楽しんだとき、それはすなわち「歩き旅」である。

広島のとある港にて

車では感じられないもの

歩くという行為は健康な体さえあれば誰でもできる。

まさに人間の移動手段の原点と言える。

歩く時のスピードは、他の移動手段に比べればダントツでスローだ。

普段せかせかした生活を送ってる人からしたら、それはただのデメリットに映るかもしれない。

でも、ゆっくり移動するということは、時間をかけて多くのものを感じることができるというメリットがある。

車に乗れば景色はあっという間に後ろに流れていく。

路傍の草花に目をやる余裕もなければ、見知らぬ人に挨拶することもない。

「そんなものに興味ない」と言われればそれまでだが、目的地を巡るだけの旅行はすごく勿体無いとぼくは思う。

インスタで見た写真を再生産することになんの意味があるのだろうか。

一方、歩いていれば、隣町までの道のりさえも発見の連続である。

風や空気を肌で感じ、季節を知る。

海ならば潮風が吹いているし、山に行けば涼しい。

夏は暑いなと思い、冬は寒いなと思う。

ただそれだけのことかもしれない。

でも、空調の効いた部屋にこもっているより、その方がはるかに刺激的だ。

車が通れないような裏道や山道に入り、農家のおばさんや山登りの人と挨拶を交わす。

「どこから来たの」と聞かれ、「気をつけてね」と言われる。

それだけで歩いてよかったと思えるのである。

堤防の隙間に生えていたスミレ。歩きだからこそ出会えた風景。

 

歩くとは弱さを知ること

ぼくが歩き旅を始めたのは去年の夏頃だった。

その時のぼくは、大事なものを二つも無くして、喪失感に襲われていた。

何かやらなきゃと思った。

だから、ぼくはとりあえず長距離を歩くことにした。

昔から旅人には憧れがあった。

でも、この時ボクが歩いた本当の目的は、「自分の強さを証明すること」にあったような気がする。

何かすごいことをやってみたかった。

すごく長い距離を歩ききれば周りからすごいと思われるんじゃないかと思ったのである。

今考えれば、なんて浅はかな考えだったのだろう、と思う。

実際、旅に出てぼくが感じたのは「無力感」であった。

日が出れば暑いし、雨が降れば寒くて体力を奪われる。

荷物を担いで20km歩いただけでもう動けなくなる。

夜はテントの蒸すような暑さで眠れず、翌日睡眠不足に苦しむ。

所詮、ぼくは無力だった。

 

でも、その代わりすごいことを発見した。

歩いていると、いろんな人が声をかけてくれて、応援してくれるということである。

基本的に誰とも話さず歩いている時に、ちょっとでも誰かと話すだけで、モリモリと元気が湧いてくるのを感じた。

車に乗って長く走っていても誰も応援なんてしてくれない。

一方で、歩いている人は常に「弱者」であり、見ている人は応援したくなるものだ。

ぼくは、なんとなくわかった気がした。

歩いて旅をするということは、「弱者」になるということなのだ。

自分の弱さを知り、積極的に弱者になることで人の温かさを知るのである。

つまり、「歩くとは、弱さを知ること」なのではないか。

 

あえて歩くということ

金をかければ、早く移動できるし移動中も常に快適になる。

しかし、そんな「強者」を助けようとする人はいない。

あえて徒歩旅行者という「弱者」に徹することで、大事なものに出会うことができる。

これが、今のぼくなりに考えた、歩くことの意味である。